「ウォッチメン」のいない世界―ガース・エニス他『ザ・ボーイズ』

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「誰が見張りを見張るのか(Who watch the watchmen)」という言い回しが英語にはあり(元をたどるとラテン語の風刺詩から来たフレーズらしい)、アラン・ムーア脚本の古典『ウォッチメン』のタイトルはこの言葉の「見張り=watchmen」から来ている。

この9月に単行本3巻が発売された(日本版はアメリカ版のTPB2冊分を一冊にまとめたもので翻訳既刊は原書6冊分が刊行されたことになる)『ザ・ボーイズ』表4裏表紙に「(スーパーヒーローを)誰かが見張っていなければならない」とあるのも1986年刊行のこの名作を多分に意識してのことだろう。

ガース・エニス(著)、ダリック・ロバートソンほか(画)『ザ・ボーイズ 1』(椎名ゆかり訳、誠文堂新光社、2017年)

『ザ・ボーイズ 1』裏表紙

だが、ライター、ガース・エニスが構築したセックスと暴力に満ちた『ザ・ボーイズ』の世界は、きわめてヨーロッパ的な教養人であるムーアの『ウォッチメン』とその後継者たちが描くスーパーヒーローコミックスの脱構築と似ているようでじつは本質的にかなり異なっている。

日本でもアメリカでもいまのところこの作品はあまり注目されているとはいいがたいが、私は日本語版2巻の前半に収録されているストーリーを読んでそのことを思い知らされ、ほとんど唖然とした。

まったくネタバレなしでそのとき抱いた感想だけを述べれば「こんな話をアメリカのスーパーヒーローコミックスで書けたこと、出版できたこと自体が信じがたい」ということになる――要するにそのくらいの衝撃を受けたのである。

もちろん「大企業の後ろ盾のもとに横暴に振る舞う超能力者/スーパーヒーローを監視する政府情報機関の超能力者の活動を描く」というこの作品の基本プロット自体は「スーパーヒーローが実在するアメリカの歴史、社会がどうなるのかをリアリスティックにシミュレートする」というムーアが80年代にアメリカン・スーパーヒーロー・コミックスに持ち込んだコンセプトを踏襲してはいる。

しかし、ムーアがその後ヒーローや物語そのものの起源を遡り想像力の淵源にあるものを探求していくような、きわめて知的で物語論、神話論的な(文学でいえばウンベルト・エーコやトマス・ピンチョンのような)アプローチで自作を展開していったのに対し、このアイルランド人は『ウォッチメン』と同じ「スーパーヒーロー」と「アメリカ現代史」という素材を用いながらまったく異なった方法論で物語を展開していることが日本版単行本2巻(アメリカ版TPB3巻)以降わかってくるのだ。

『ザ・ボーイズ2』より

この作品はアメリカでは当初コミックス出版大手のDCコミックスから刊行されていたのだが、刊行途中に過剰な暴力描写を理由に刊行を拒否され(エニス自身はDCでの前作『プリ―チャー』での同種の描写が問題にされなかったのと比較し『ザ・ボーイズ』が「スーパーヒーロー」コミックスだったのが本当の原因だろうといっている※1)、小出版社Dynamite Entertainment に版元を移して刊行を続け完結に至っている。
※1 MacDonald, Heidi (February 9, 2007).”Exclusive: Garth Ennis talks The Boys and more”

こうした経緯を見ると「過激な作品とその出版を拒否する保守的な大手出版社」という図式的な理解をされてしまうかもしれないし、実際そういう面もあるのだとは思うが、おそらくこの作品の出版をDCコミックスが拒んだのはそれだけではなく、同社が主に出版している(そして現在映画やドラマなどでも大規模にメディア展開している)ジャンルとしての「スーパーヒーロー」コミックス、その全体のブランドイメージを毀損しかねない、そういう異質さをこの作品から感じ取ったからなのではないか。

作品が完結した現在、そう思えてくるほど、この作品はこれまでの「スーパーヒーロー」コミックスとは違っている――なぜなら『ザ・ボーイズ』には「スーパー」な人物は山ほど出てくるが、登場人物のなかに「ヒーロー」はひとりもいないのだ。

『ザ・ボーイズ1』より。“「スーパー」な人物は山ほど出てくるが、登場人物のなかに「ヒーロー」はひとりもいない”

かつてフランク・ミラーは自作『バットマン:ダークナイト・リターンズ』とムーアの『ウォッチメン』の影響を受けた80年代後半から90年代前半のスーパーヒーローコミックスの主人公たちが「ヒーロー」とは名ばかりのサイコパスばかりになってしまったことを批判していたが※2、この作品にあるのはそうした作劇としてのリアリズムを誤解した結果あらわれた無自覚な「ヒーロー」の不在(それは特に既存の「スーパーヒーロー」とかわりばえのしない退屈なものだ)とも異なり、エニスがこの作品で描いているのは「スーパーヒーロー」を演じるちょっと愚かでエゴイスティックな「ただの人間」たちの姿である。
※2 Gross, Gary, The Comics Journal Library: Frank Miller (Fantagraphics, 2003) 収録のものなど多くのインタビューでミラーは同趣旨のことを述べている。

この物語の登場人物の多くは超能力を持っているが、そのことと彼らがひどく凡庸な「ただの人間」であることのあいだにはなんの矛盾も関係もない。

『ザ・ボーイズ』の世界には『ウォッチメン』のドクター・マンハッタンのような超越者はいないし、スーパーマンのような人々を導くアイコンのような存在もいない、だからといってそこは悪魔のような圧政者に牛耳られたディストピアというわけでもなく、この作品の最悪の敵役ですらジョーカーのような「完全なサイコパス」ではない、超能力を持っているだけの見栄っ張りで欲の深い「ただの人間」でしかないのだ。

『ザ・ボーイズ1』より

そこにはそもそも世界を監視したり守ったりする「ウォッチメン」などいない。

そのあまりにも身も蓋もない見方をスーパーヒーローコミックスの枠組みで提示してしまったことこそが、どんなエログロよりも強烈なガース・エニスという作家が仕掛けた悪意だろう。

だが、きわめて安易にヒーローや悪を見出し、創り出しては、それに対する極端な賞賛や炎上がメディアやネットで繰り返されている311後の日本においてこそ、この悪意に満ちた愚かでエゴイスティックな「ただの人間」たちの物語は読まれるべきだとも思うのだ。

その意味で日本語版翻訳の完結を切に願う。

About Author

小田切 博

フリーライター、アメリカンコミックス研究。著書『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』(NTT出版)、『キャラクターとは何か』(筑摩書房)、共編著『アメリカンコミックス最前線』(小野耕世との共編、大日本印刷)。

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