『ぼくのママはアメリカにいるんだ』を読んで

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1.となりの女の子の親切

ジャン・レニョとエミール・ブラヴォ作、原正人訳の『ぼくのママはアメリカにいるんだ』は、全ページ・フルカラーの美しい本だ。表紙には、アメリカ・インディアンの真似をして、髪に羽根飾りをつけている男の子の姿が描かれている。彼が真剣なまなざしで読んでいるのはなんだろう……。

ジャン・レニョ作、エミール・ブラヴォ画『ぼくのママはアメリカにいるんだ』(原正人訳、本の雑誌社、2018年)

男の子は、幼稚園を経て、これから小学校に入学しようとしているフランスの子どもだ。初めての学校では、知っている子がいない。みんなふたりずつ手をつないでいるのに、自分だけは相手がいない。そこに年配の女の先生が来る。それだけで、どぎまぎしてしまう。でも、ひとりぼっちの男の子がもうひとりいて、手をさしだしてくれ、手をつなぐことができて、ほっとする……。

主人公のジャン。みんなふたりずつ手をつないでいるけど…

といって、学校の新学期は、日本のように4月ではなくて、9月だ。先生は、クリスマスになったら退任して、新しい先生が来るという。新しい先生は、若い女性らしいので、ジャンという名のその子は、早くも次の先生にあこがれを抱いてしまう。

すべてが新しい体験で、どぎまぎする。先生の前で、自分の両親について、ひとりずつ述べていくのだが、うまくしゃべれない。お父さんは会社の社長で、お母さんは会社秘書だとあわてて答える。でも、学校が終ってむかえにきてくれるのは、母親ではなく、家で子どもの子守り役をしてくれるイヴェットという女性だ。そしてジャンには幼稚園生の弟がいる。ふたりとも、冷たいココアが好きだ―という次第で、このマンガは1ページをさいて、イヴェットが冷たいココアを作る手順を示してくれる(これがアメリカだったら、ホット・チョコレートを好むのではないかと、私はふと思った)。そんな場面を見ながら、自分が小学生になったときの気持ちを思い出そうとする。戦時中―というのは1945年、埼玉県の母がたの縁を頼って、東京から母と弟との3人で〈疎開〉していた私は、戦争が終って、そのいなかの小学校に入学したのだが、毎日がとにかく恥ずかしくてしかたなかった。

イヴェット特製冷たいココアの作りかた

いなかの子は、靴などはいて学校へ来る東京の子どもを嫌って、毎日私はいじめられた。それを女の先生が、いつもやさしくかばってくれたものだ―そして、ひと月もすると友だちも出来て、私もいつのまにか、はだしで学校に通うようになっていた。そんなものである。

だが、東京に戻ってから、小学2年で世田谷の下北沢の小学校に途中入学したときも、恥ずかしくていじめられたこともある。そして、小学3年になって、成城学園小学校に転入したとき、やっと私は自由を得た気がした。ここではみなとすぐ打ちとけた。だれもが親切で、すぐに仲良しになれた……。

『ぼくのママ』の新入生のおどおどした気持ちは、世界共通だろう。しかし、このマンガには、いろいろな仕掛けがある。ジャンの父親は、母親のことを、なにも説明してくれないのだ。そこで、生け垣をへだてた隣の家の女の子、2歳年上のミシェルの登場となる。

彼女はいろいろ、彼の世話をしてくれる。「あなたのお母さんは、外国に旅行中で、ほら、アメリカから絵ハガキが来ているわよ」と、ニューヨークの写真などのついた絵ハガキを持ってきて、読んでくれるのだ。その空想的な絵ハガキの内容が楽しい……。

2.おもちゃの兵隊に彩色するひと

このマンガは、いろいろな不安と、知らないことがいっぱいの小学1年の男の子の気持ちに寄りそった物語なのだが、登場する人びとのキャラクターに親しみが持てる。例えばクラスメートの男の子の父親は、おもちゃの兵隊人形に彩色する仕事をしていて、その家に行くと、父親が仕事をしている姿が見られる。なるほど、人形の一体ごとに、筆で彩色しているのだな、そうした職人がフランスにいるのだなと、感心する。

親友アランのパパはブリキの兵隊の彩色家

2歳年長の隣の女の子が、次つぎとジャンに渡してくれる架空の絵ハガキも興味深い。この女の子は、そうしたハガキを作ることで、彼女自身の空想・創作欲を満たしているのだなと思う。自分も楽しみながら、隣の男の子をなぐさめているのだが、その彼女自身も、成長していく。少年の父親と、親せきの人、おばさんなどとの関係は、ときに辛らつに描かれる。親せき関係には、きれいごとではない事実も描かれる。男の子は、いろいろな家族づきあいの現実にもまれていく。そして、クリスマスにサンタクロースはいると信じるジャンの、真相探しの一種の〈家庭内の冒険〉も描かれる。

お隣のミシェルがジャンのママから届いたという手紙を読み上げる

小学校で、水泳プールで泳ぎを習うエピソードでは、ジャン=ミシェルというベトナム人の男の子がいて、泳げないのにプールにとびこんで、先生に助けられ息を吹きかえす場面がある。とにかくとびこまなくてはいけないと、いつもいじめられがちなベトナムの男の子は思ったのだろう。

同級生のベトナム人ジャン=ミシェル・トン

それは、私の場合、高校へ入学したときの体験に通じる。都立新宿高校に入学して初めての夏、体育の時間に、学校の25メートルプールに新入生は集められた。

とにかく25メートル泳いでみなさい―というのだ。私は泳げない。前に並んだ同期生たちは、みな泳いでいく。自分の番がきた。前の人が飛びこんで、平泳ぎで潜水するのを見て、ああすればできるかも―と思った私は、とにかく飛びこんでしまったが、苦しくて泳げない。すぐに水泳のうまい同級生が飛びこんで、私を助けてくれた。「泳げないのに飛びこむやつがあるか」と、彼にはあきれられたが、そのあと彼とはたちまち親友になった……。

3.そもそもは、2007年の刊行

このマンガには、小学1年生がカウンセラーの先生に、ひとりずつカウンセリングを受ける場面があって、フランスの学校ではそうしたこともするのかと知った。ロールシャッハ・テストも行われて、ふしぎな形の絵を見せて、これが何に見えるかきかれるのである。もちろんなんだかわからないジャンは、他の生徒にきいたイメージを言ってしまう。カウンセラーがけげんな顔をする場面に笑ったが、小学1年生は、そのイメージについて、なにか正解があって、それを答えないとたいへんなことになる―と思いこんでしまうのは、無理はないのではないか。

そんなふうに、このマンガは、小さな小学生の気持ちにそって、細部もていねいに、巧みにさまざまなエピソードを組みあわせたこころにしみる作品になっている。ただ、このマンガがフランスで刊行され高い評価を得たのは、2007年のことである。日本版の刊行は、2018年の1月と奥付にあるから、フランスのガリマール社から出てから10年以上が経ったことになる。

もっと早く日本版が出てもおかしくはないはずだと私は思ったが、考えてみれば『ぼくのママはアメリカにいるんだ』は、例えば巨匠のメビウスが描くような壮大なファンタジーでもないし、アクションものでもない。内容から言えば、静かで、決して派手とはいえないBDである。

つまり、いろいろ工夫がなされた内容で、子どものこころによりそったこの作品は、子どもが読んでもおとなが読んでも、じっくりと楽しめると思うのだが、それはさまざまな内容のヨーロッパのマンガがようやく親しまれるようになったいまの日本の読書界だから言えることで、10年前では出版社が日本版の刊行をためらったのだなと納得した。

こうした味わい深いフランスの作品を見逃すのは、それこそもったいないと、本書を読んだ私は思う。どこの国のだれにでも、おとなたちは見逃しがちな子ども時代の苦しみというのはあるのだから。そして、この本の最後には、新しい女の先生が着任して、私をほっとさせてくれた。

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About Author

小野 耕世

1939年生まれ。評論家、翻訳家。1960年代末以降、現在にいたるまで海外マンガを精力的に翻訳・紹介し続けている。主な著書に『バットマンになりたい―小野耕世のコミックス世界』(晶文社)、『長編マンガの先駆者たち―田河水泡から手塚治虫まで』(岩波書店)、主な訳書にロバート・クラム『フリッツ・ザ・キャット コンプリート』(復刊ドットコム)、パコ・ロカ『家』(高木奈々との共訳、小学館集英社プロダクション)などがある。

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