かつて存在したサッカーというスポーツについて―コーヴァン&ビラル『オフサイド』

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また4年に一度のサッカーW杯の季節がやってきた。去る5月31日には日本代表最終メンバーも発表され、6月19日(火)のロシアW杯初戦に向け、とりあえず臨戦態勢は整った模様である。監督更迭に壮行試合の惨敗に今回のメンバー選考と、戦前からこりゃダメだ感がすごいが、案外こういうときにこそ、蓋を開けてみたらいい試合をするのか、やっぱりダメなのか……。

こういう大きなイベント事があると、それに乗じて何か翻訳が出せないかと考えてしまうのがフリー翻訳者の性だが、事実、ここ3大会W杯が来るたびに、どうにかなんねーかなと頭をひねり、今のところまるで相手にされていないフランス語の本が1冊ある。パトリック・コーヴァン&エンキ・ビラル『オフサイド』(Patrick Cauvin, Enki Bilal, Hors jeu)である。筆者が持っているのは2006年にカステルマン(Casterman)社が出した版だが、元々は1987年にオートルマン(Autrement)社から出版されている。もちろんサッカーをめぐる作品である。

トリック・コーヴァン&エンキ・ビラル『オフサイド』(Patrick Cauvin, Enki Bilal, Hors jeu, Autrement, 1987 [Casterman, 2006])

作者のひとりエンキ・ビラルについては、海外マンガ好きにはもはや詳しい説明は不要だろう。旧ユーゴスラビア出身、現在はフランス国籍のバンド・デシネ(以下BD)作家・映画監督である。日本でも、「ニコポル三部作」(貴田奈津子訳、河出書房新社、2000~2001年)や『モンスター[完全版]』(大西愛子訳、飛鳥新社、2011年)、『ルーヴルの亡霊たち』(大西愛子訳、小学館集英社プロダクション、2014年)などが邦訳出版され、監督した映画『バンカー・パレス・ホテル』(1989年)、『ティコ・ムーン』(1996年)、『ゴッド・ディーバ』(2004年)も、一通り公開なりソフト化なりされている。最近だと、2016年初頭に東京銀座のシャネル・ネクサス・ホールで「INBOX HYBRIDIZATION [IN LOVE]」展が、その後、同年3月にオープンしたばかりのLUMINE 0で、「OUTBOX エンキ ビラル」展が開催され、本人の来日イベントも行われた。

「ニコポル三部作」(第1巻『不死者のカーニバル』、第2巻『罠の女』、第3巻『冷たい赤道』、貴田奈津子訳、2000~2001年)

『モンスター[完全版]』(大西愛子訳、飛鳥新社、2011年)

エンキ・ビラルと言えば、まずはBDの巨匠であるわけだが、本書『オフサイド』はいわゆるBDではない。パトリック・コーヴァンが執筆したテキストとエンキ・ビラルの複数の一枚絵から構成される、挿絵入りの小説、または絵本みたいな本である。プロローグとエピローグを除き、全部で11の章(いささか安直だが、イレブンということなのか!?)に分かれていて、それぞれ、左側にコーヴァンのテキスト、右側にビラルの一枚絵という見開きで完結する。横長の判型で、たった28ページしかない。本の作り方がちょっと独特で、2016年の来日時に聞いた記憶では、先にエンキ・ビラルが絵を描き、それに基づいてパトリック・コーヴァンがお話を作っていったらしい。同種のBD系の本だと、アレハンドロ・ホドロフスキー&メビウスの『天使の爪』(拙訳、飛鳥新社、2013年)があるが、こちらは原書刊行が1994年だから、コーヴァン&ビラルの『オフサイド』のほうが先である。もっとも、現在東京都庭園美術館で現在開催中の「鹿島茂コレクション フランス絵本の世界」の展示によれば、既に19世紀のフランスで編集者のエッツェルと画家のグランヴィルが同じ方式で仕事をしているそうだから、歴史をひもとけば、案外珍しいものでもないのかもしれない。

さて、前置きが長くなったが、『オフサイド』とはどんな作品なのだろう?

物語の舞台は作品の執筆時点から見た近未来。紀年法こそ異なるが、冷戦構造下のディストピア感溢れるヨーロッパを中心とした世界である。語り手のスタン・スカヴェリッチは、かつてサッカー中継のアナウンサーだったが、今は引退して余生を過ごしている。ある日彼は、「デルタ・ワーク3」というテレビ局から、番組制作への協力を依頼される。「デルタ・ワーク3」は、これまでにも、「今は亡き映画」と「今は亡き音楽」という、既に滅びて久しい(!)大衆文化を哀悼する番組を制作していた。そのシリーズ第3弾として「今は亡きサッカー」に白羽の矢が立ったのだ。そう、この時代、サッカーは既に消滅してしまっているのだ。

本書の語り手で元サッカー中継アナウンサーの
スタン・スカヴェリッチ

スカヴェリッチがマイクとイヤホンを置いて、既に23年と7カ月が経とうとしていた。彼が最後に中継した試合こそ、最後のサッカーの試合だった。視聴率は0.37%。オールドムービー・ネットワークで、3時から5時に放映される無声映画の視聴率よりなお悪い。いったいサッカーに何が起きてしまったのか。その辺りの事情を推察させる説明が本書の裏表紙に記されている。

075年、サッカー・ボールの廃止が決定された。その瞬間から、ゴールとは選手自身のゴールマウスへの突入を意味することとなる……。
“フットボール(foot-ball)”という言葉は消滅した……。この言葉はもはやこの新しいスポーツの名にそぐわなかったのである。

こ…こんなサッカー、嫌だ!

とにかくテレビ局からの依頼で、数十年ぶりにサッカーと向き合うことになったスタン・スカヴェリッチは、11の局面(事件だったり、選手だったり)を通じて、最終的には消滅に至った暗黒のサッカー史をひもといていくことになる。

往年の名選手ワンザ・シドロンは、フィジカル・チェックを装った痙攣誘発剤の投与によって、試合中に倒れ、その後命を失うことになる。観客の暴徒化や選手同士の諍いが激しくなり、時には大量殺人事件に発展(1試合で127名の死者が出たこともあった)、それがきっかけで無観客試合が完全義務化される……。世界情勢を反映して、サッカーは年々剣呑なものになっていく。

フィジカル・チェックを装い
痙攣誘発剤を投与されるワンザ・シドロン

ある試合中には、レフェリーが暗殺され、それからしばらくして、レフェリーは地中に開けられた穴にもぐり、上部を強化ガラスで保護されつつ、そこからジャッジをくだすことになる。フィールドの下には通路が縦横に走り、レフェリーたちはそこを行き来しながら協議をすることもできるのだとか。1試合をさばくレフェリーの数はなんと12名である。

地中からジャッジを下すレフェリーと
しゃがんで詰め寄る選手

国家間の代理戦争の様相を呈したサッカーの試合において、選手はもはや兵器と化していた。視床に電極を埋め込むことで、ミスを犯した選手に刺激を与え、それを通じてミスを少なくしていくというパニッシュメント・フラッシュという技術が導入される。国家代表同士による国際マッチは、軍隊間の試合に取って代わられた。サッカーは今や命賭けの、文字通り「絶対に負けられない戦い」となったのだ。

国際マッチは軍隊同士の試合に取って代わられた

こうしてスポーツとしてのサッカーは消滅した……。

11のエピソードを選び、番組作りの準備を終えたスタン・スカヴェリッチは、気分転換に散歩に出た先で、子どもたちの姿を見かける。誰に教わったのか、彼らは空き地でペットボトルをボールに見立てた遊びに興じている。彼らは広場に線を引き、ゴールのようなものまで描いていた。それはまぎれもないサッカーだった。スカヴェリッチは、サッカーとは人間にとってかくも自発的で、不滅の遊びなのだと感動にむせぶ。ここからまた新しいサッカーが生まれるかもしれない。この次は、ベッドの下に大事に取ってあるサッカー・ボールを子供たちにあげようと心に決めつつ、彼は帰途につくのだった。

本書が刊行されたのは1987年。ベルリンの壁はまだ崩壊していない。この時代、糜爛した古いヨーロッパで、狂気や不条理がたんたんと進行していく様子を描かせたら、エンキ・ビラルの右に出る者はいない(その頂点は1998年に刊行された『モンスター』の第1巻に当たる『モンスターの眠り』だろう)。サッカーがしばしば戦争の比喩で語られることは周知の事実だが、本書はそれを利用し、1980年代末、冷戦構造がまだ生きていた時代に、予言とたちの悪い冗談のギリギリのラインで、サッカーの未来を描いてみせた。

Jリーグが始まってはや25年。サッカー人気もかなり定着した感のある今、こういうサッカーをめぐるフィクションが日本語で読めてもいいんじゃないかと思うのだが、はたして……。4年後の2022年カタールW杯の頃にはきっと……。

ちなみに最後に救いがあるとはいえ、こんな暗澹たるサッカーの物語を作った当のエンキ・ビラルは、まったく鬱々とした人物ではなく、ちょっとダンディな、気のいいおっさんであった。彼は一時、バンド・デシネ作家仲間たちと、“ミクソンBDフットボールクラブ(Mickson BD football club)”というチームを結成し、好んで大会にも参加したというサッカー愛好家である(そういや『モンスター』の主人公のひとりアミールもサッカー選手だった)。それはそれで楽しい。

About Author

原 正人

1974年静岡県生まれ。フランスのマンガ“バンド・デシネ”の翻訳者。訳書にバスティアン・ヴィヴェス『ポリーナ』(小学館集英社プロダクション)、マリー・ポムピュイ、ファビアン・ヴェルマン&ケラスコエット『かわいい闇』(河出書房新社)など。監修に『はじめての人のためのバンド・デシネ徹底ガイド』(玄光社)がある。「世界のマンガについてゆるーく考える会」主宰。もちろん日本のマンガも大好き。

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