失われた家を求めて―アリソン・ベクダル『ファン・ホーム』

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ふだん、私たちはマンガを「読む」というが、同時にマンガは「見る」ものでもある。しかし、実際に私たちが行っているのは、マンガのページにある文字や視覚情報(絵やコマ、その他の記号)をすばやく「走り読み」し、それをマンガの慣習を利用しながら、頭の中で統合し、物語を理解する(=作りあげる)ことである。特に、日本の商業誌にある人気マンガの多くは、こうした読み方を読者にもとめている。一方、作り手たちは読者を物語世界へいざなうために、さまざまな形式的、視覚的、美学的な努力を行ってきた。優れた戦後のストーリー・マンガは、こうした作者と読者との交渉を繰り返すなかで生まれてきたとも言えるだろう。

アリソン・ベクダル『ファン・ホーム ある家族の悲喜劇〈新装版〉』(椎名ゆかり訳、小学館集英社プロダクション、2017年)

しかし、読者として私たちは日本の主流マンガのスピードとリズムに慣れすぎてしまったかもしれない。今回のレビュー作品『ファン・ホーム〜ある家族の悲喜劇』(以下、『ファン・ホーム』)を再読していて、何度もこの思いにとらわれた。テーマ的な深遠さと形式的な複層性を持ったこの作品は、私たちに異なる読み方を要求しながら、同時に挑戦・挑発しているようにも思える。言い換えるなら、『ファン・ホーム』を十分に味わうには、私たちの馴致された「読みの習慣」を抜け出して「ゆっくり、何度も読む」ことが必要かもしれない。

『ファン・ホーム』は、著者のアリソン・ベクダルが、自らの父ブルース・ベクダルとの関係について書いた「グラフィック・メモワール」(コミックス形式の回想録)である。物語の中心にあるのは、父の死である。ブルース・ベクダルは、アリソンが大学生の時にトラックに轢かれて亡くなっており、その死の原因が事故なのか、または自殺なのかという問いが、物語のひとつの軸になっている。また、このメモワールはアリソンの自伝的な物語でもあり、彼女自身がゲイ(レズビアン) として目覚めていく過程と、父自身も実はゲイであったにもかかわらず、妻や娘たちに対しては(少なくともタテマエとしては)あくまで「理想」の父を演じ、家庭(ホーム)を築き上げようとした父の「本当の姿」に迫ろうとするものである。物語の構造は、父と娘の複雑な関係を、過去のさまざまな場面を描きながらも、同時に父が愛した小説や残していった手紙やメモといった資料を参照することで、ひとつのコミックス作品に仕立て上げている(この作品の制作に7年もかけたという)。 さらに『ファン・ホーム』の物語の内容について詳しく知りたい方は、このサイトにも再掲載された原正人氏 のレビューをぜひ読んでほしい。

『ファン・ホーム』のオリジナルの表紙(ペーパーバック版)
Alison Bechdel, Fun Home: A Family Tragicomic, Mariner Books, 2007

『ファン・ホーム』に対して最も使われる形容は「文学的」という言葉だ。その理由のひとつは、作品内で数多くの有名文学作品が言及されているからである。冒頭から父をギリシア神話やキリスト教的なイメージと結びつけており、カミュやプルースト、フィッツジェラルド、(オスカー・)ワイルド、コレット、そして(おそらくこの作品にとって最も重要と思われる)ジェームズ・ジョイスら、西洋の文学伝統、特に西洋ハイ・モダニズム文学の伝統への言及が作品全体を通して見られる。通常、こうしたインターテクスト(先行作品への言及と引用)は、物語世界に厚みを与えるとともに、複数の象徴的な読みや解釈を生み出していくが、『ファン・ホーム』では、その様子が過剰で、「偏執的(オブセッシブ)」といっていいほどなのだ。まさに原氏が言うように「文学的なマンガの極北」といえるだろう。

作品内に召喚される
ジェームス・ジョイス『ユリシーズ』

ただし、こうした先行文学に対する態度は、知的で文学的な読者にむけた衒学的な意図から発せられたものではないだろう。それは、父が愛した文学作品や作家を自らの作品に召喚することで、近くて遠い存在であった父をなんとか「理解」しようとする著者の努力の現れであろう。もちろん、『ファン・ホーム』は先行する文学作品へのオマージュとも言えるが、それは、『ファン・ホーム』という作品を文学へと従属させるものでもなければ、(制度化された/高尚と考えられている)「文学」に対して、コミックス作品を以って対抗しようとするものでもない。むしろ、「文学とは(そもそも)何か」という問いを、その形式とメディアにおいて問いなおす契機を与える作品になっている。

文学的な問いと絡めて語られる事が多い『ファン・ホーム』だが、ここでもう一度、タイトルにもどってみたい。タイトルの副題にある「悲喜劇」は、原題では「トラジコメディ」(tragicomedy)ではなく「トラジコミック」(tragicomic)だ。この高度に「文学」的と評される作品のコアにある「コミック(ス)」の要素については、しばしば見逃されてきた点かもしれない。そこで『ファン・ホーム』を、より多面的に味わうためにも、この作品にあるコミックスとしての形式的側面について少し記しておきたい。

まず、一つ目は、このコミックス形式のメモワールには、常に複数の異なる時間とリズムが流れていることだ。父の死後という「現在」から、フラッシュバック(そして、フラッシュ・フォーワード)を通して「過去」を語るという物語構造だけではない。ほとんどのページには、コマの外側(上部)に語り手のナレーションがあり、そのコマで描かれている絵や場面、行為について「現在」からの(メタ)コメンタリーとしての役割を担っている。これにより、ナレーションの意味内容とコマに描かれた絵が呼応したり、矛盾したりしながらも、語り手としてアリソンは、一定の冷めた距離を置きながら、過去の父の姿や過去の自分についての物語を語っている。また、別のページやコマでは、フキダシとは異なるかたちで、絵に重なるように置かれたテキストボックスの中に、ナレーションやコメントが描き込まれている。こうした形式的な操作によって、何重にも重なったナラティブの時間とリズムが生み出されている。また、絵と文字の「間」の関係と、描かれている過去の場面(絵)に対するナレーションとコメントの「間」についても、読者は解釈を迫られているのだ。

コマ上部のナレーションと
コマ内部のナレーションと
引用された日記の一部

二つ目は、著者が父について語る際に持ち込んださまざまなモノやメディアの提示の仕方である。『ファン・ホーム』には、日記や手紙、写真、新聞記事のほか、父が読んでいた本の中に書かれていたメモなどがふんだんに引用されているが、それらはすべて、写真や手紙を貼りつけたものではなく、(写真でさえも)著者アリソンが手で描き込んだものなのだ。つまり、著者は、作品を通して、何度も父の姿を描き続けただけでなく、言葉や手紙の筆跡まで、もう一度、この「コミックス作品」の中に描きこんでいる。その様子はまるで、父のブルース・ベクダルが、自分の家(ホーム)を作り上げていく執拗さと酷似している。しかし、それは父のように自らの「理想」を演じながら作り上げようとしたうわべを飾るだけのような「家」(ホーム)ではない。アリソンはこの作品を通して、もうひとつの本当の「家」(ホーム)を作り上げようとした、と言えるかもしれない(実際、この本の表紙が、家の壁紙のようなデザインになっているのは、おそらく偶然ではないだろう)。また、このことは、『ファン・ホーム』の制作を通して、娘であるアリソンが、父の生、そして父との関係において見出される過去の自分の生を、再び生き抜いたことを意味しているかもしれない。

父の手紙

三つ目は、コミックスにある絵画的な要素、中でもパースペクティブを積極的に利用することで、絵に物語を語らせていることである。例えば、第三章の最後のページにある二つのコマは、父のブルースが本を読み、娘のアリソンは『MAD』(ユーモア風刺コミックス雑誌!)を買うために小切手を書いているという同じ場面を描いている。一コマ目では、二人の斜め前方から、読書をする父と小切手を書くアリソンが隣り合っているように描かれている。それぞれの趣味(文学とコミックス)に没頭する姿も似ており、両者の「つながり」を暗示しているかのようだ。しかし、次のコマでは、同じ場面がややロングショットで、家の外側から、それも二つの窓を通して描かれている。このパースペクティブでは、窓からのぞく両者の間に壁があるかのように距離をもって分断されて見え、両者の間には、共通点やつながりがないことを示すかのようだ。

同じ場面を異なるパースペクティブで描いているページ

このように「文学的」と言われる作品の中にある、絵的な要素に注意しながら読むと『ファン・ホーム』がコミックスとして描かれたことの価値に気づくだろう。コミックスは、絵や文字を「断片的」に使うことで、物語を語ったり、メッセージを伝えようとしたりするメディア(メディアム)だが、そうした構造は、しばしば指摘されるように、どこか私たちの記憶に似通っている(実際、「記憶」(メモリー)と「回想録」(メモワール)という言葉は意味を共有している)。つまり、私たちは、過去をすべて記憶することはできないため、記憶は断片的で、過去の断片と断片の間に連続性を見つける(または作り出す)ことで、自分自身を理解している。同じことが、自己と他者の関係に、『ファン・ホーム』に即して言えば、著者アリソンと父のブルースの関係にも言えるだろう。つまり、アリソンが『ファン・ホーム』で行ったのは、父との関係と過去を再び生き抜くことで、二人の間の絆(きずな)を見つけようとした、と言える。

『ファン・ホーム』は、選ばれた単語やフレーズだけでなく、絵までもが多義性を持つ作品だが、原書のエッセンスを椎名ゆかり氏の翻訳は見事にとらえている。巻末の注も『ファン・ホーム』の世界をナビゲートするのにとても役立つ。

読み直す度に、新しい発見がある作品である。ぜひ、ゆっくりと、何度も読んでほしい。

Copyright © 2006 by Alison Bechdel All rights reserved.


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About Author

CJ・スズキ

愛知県生まれ、現在アメリカのニューヨーク在住。メインストリームのアメコミ作家からオルタナ系のアーティストをはじめ、世界中からさまざまなジャンルやバックグラウンドのアーティストが集まる刺激的な都市、ニューヨークで、日本と北米のマンガを中心に研究しています。映像作家/大学講師であるジョージ・ツーリス(George Tsouris)とともに「Manga Research and Reading Network in NYC (MaRRN)」を主宰。

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