海外マンガの人々―おしぐちたかしさんインタビュー

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海外マンガの仕事に関わる人物を紹介する「海外マンガの人々」。今回ご紹介するのは、書店員、評論家、編集者とさまざまな立場で海外マンガにずっと関わってこられた日本における海外マンガ紹介の功労者おしぐちたかしさん。90年代からおしぐちさんを知る小田切博さんにインタビュアーを務めていただきました。

おしぐちたかしさん

―ぼくは孤独だった

はじめて海外マンガを知ったのはいつごろですか。

海外のマンガというか、十代のころはマンガ自体ほとんど『COM』【註1】 しか読んでないんですよ。
‘55年生まれで「鉄腕アトム」はテレビアニメの放送開始と同時に観ていたからアニメ第一世代なのは間違いないんだけれど、『少年』【註2】や『ぼくら』【註3】のような月刊少年漫画誌の全盛期はすでに過ぎ、週刊少年漫画誌は創刊直後というはざまの時期に子供時代を過ごしたので、アトムや鉄人(28号)も雑誌連載ではちゃんと読んではいないし、経済的に週刊の雑誌を毎週買うのも難しかったから週刊少年誌の熱心な読者だったともいえない。手塚治虫の「火の鳥」や当時ズバぬけてカッコいい絵だと思っていた石ノ森章太郎(当時は「石森」表記)の「ジュン」が連載していた『COM』というマニアックな雑誌だけを毎月買っていました。
【註1】 『COM』1967年に手塚治虫が設立したアニメ製作会社、虫プロダクションの版権管理部門だった虫プロ商事が出版社化し、創刊したマンガ雑誌。1971年に一度休刊し、『COMコミックス』としてリニューアル創刊したのち、1973年に『COM』として再度復刊するが、この復刊号を出したのみで虫プロ商事が倒産した。
【註2】1946~68年、光文社から刊行されていた月刊児童雑誌。『鉄腕アトム』や『鉄人28号』が連載していた。
【註3】1954~69年まで講談社から刊行されていた月刊児童雑誌。

その『COM』で‘68年から小野(耕世)さんの海外マンガを紹介する連載記事がはじまった。(海外マンガに関しては)そこにジョン・ロミータが描いたスパイダーマンのイラストが紹介されていてそれを「カッコいいヒーローだな」と思ったのが最初です。小野さんの記事自体は当時の先端的なポップカルチャーの紹介記事だったから、むずかしくて子供だったぼくにはよくわからなかったんだけど、テレビドラマでスーパーマンやバットマンは知っていたから新しいアメリカのカッコいいヒーローだということは理解できた。

小野耕世さんの「海外まんが紹介」が最初に載った『COM』(虫プロ商事、1968年4月号)

お生まれはどちらでしょうか。

福岡県北九州市の門司港というところで、田舎なんですけど、運よく近所の書店に『COM』みたいなマニアックな本が入荷していて手に入ったんですね。

そのころは劇画ブームで『巨人の星』や『あしたのジョー』もはじまっていたけど、僕自身はそれらをリアルタイムには読んでいなかった。むしろスパイダーマンを知って以降は、当時洋販(日本洋書販売) 【註4】が輸入したアメリカのコミックブックが書店の雑誌売り場で売られていたので、それを探して買っていました。
【註4】1953年に設立された洋書の販売取次をおこなっていた企業。2008年倒産。

ただ、洋販の仕入れの問題からスパイダーマンの出てくるコミックブックがなかなか見つからなかった。やっと見つけたのがコレ(『Marvel Tales』#21)なんですが、これは過去他の本に掲載された作品をいくつか集めたアンソロジータイトルで、掲載されていたスパイダーマンのストーリーのアーティストがジョン・ロミータじゃなくて、スティーブ・ディッコで……。『COM』で見た「カッコいい」スパイダーマンじゃなかったんです。でも、同じ号にジャック・カービーの描いたマイティ・ソーが掲載されていて、これがそれまで見たことのないカッコよさだった。そのときのカービーで(アメコミの)魅力に憑りつかれた感じかな。

『Marvel Tales』#21(Marvel Comics、1969年7月)

だから、まずキャラクターで、次は絵だった。

その魅力は日本のマンガと比較して実感する感じだったんでしょうか。

もちろん石ノ森さんの(サイボーグ)009なんかは読んで楽しんでいたわけだけど、その表現を比較して「どちらが下/上」といったことを考えていたわけではありませんでした。不思議なものでそこには自然と線引きがあって、(アメリカのスーパーヒーローコミックスは)それとはまた別の表現として自分の中でしっくりきたんですよね。

ただ、そうやって地方の書店で手に入れられる数少ないコミックブックを見ることからアメコミ特有のシステムを学んではいました。小野さんのコラムって基本的に物語の魅力を解説してくれるもので、システムの話はしてくれないじゃないですか? 同じキャラクターの本でもいろんなアーティストが描いているとか。そういうことを実際のコミックブックに触れることで知り、多数の魅力的なアーティストに出会っていったわけです。カービーにはじまってジーン・コーラン、ジョン・ビュッセマなどの写実的なアートスタイルにすごくはまった。

コレ(『Avengers』#77)なんか、アベンジャーズの基地が不動産屋に買収されて追い出されてアルバイトをするというしようもない話(笑)なんだけど、このジョン・ビュッセマの絵は圧倒的にすごい。だから、父親が趣味で油絵を描くひとだったことも関係するのかもしれないけど、ぼくは中学三年生くらいで「こういう絵がすごい」という価値観、絵画志向みたいなものを内面化していたんでしょうね。

『Avengers』#77(Marvel Comics、1970年6月)

『COM』というと「ぐらこん」という読者ページ、新人マンガ家の投稿コーナーを常設し、当時のマンガ読者、ファンを組織化する役割を果たした雑誌という側面があったわけですが……

あ、ぼくはそういうところには特にかかわりがなかった。

それ以降もそうなんですけど、友達はいたけど、中学や高校で「アメコミがカッコいい」なんて話をして共感してくれる人間なんて周囲にまったくいませんでした(笑)。

唯一中学時代に村上くんという絵が抜群にうまい同級生が、アメコミの価値観をわかってくれて、二人合作でアメコミもどきの漫画を作ろうしたけれど、彼が引っ越しまい、頓挫した。

それ以降、仲間を募ることもなく、孤独といえば孤独な境遇(笑)。

―サブカルチャーの時代

高校時代は生徒会と美術部で忙しかったから、マンガに関する記憶はあんまりない(笑)。

むしろ高校時代は、図書館に置いていた早川書房の「世界SF全集」に端を発して、安部公房や福永武彦といった活字系を読み漁っていた。あと太宰治は通過儀礼のように読んでいました(笑)。

マンガに関しては高校2年の時に、今の奥さんが当時薦めてくれた萩尾望都の『ポーの一族』にはカルチャーショックを受け、少女マンガに開眼はした。そう『COM』でハマったのも、アメコミ寄りの宮谷一彦ではなく、岡田史子や樹村みのりだった。今思い返せば10代の後半は、少女マンガというか、女流系の作家のマンガに傾倒していたな。

余談だけど、2017年の暮に、岡田史子の作品集の復刊を手がけました。自分が10代の頃に心酔した50年前の原稿を実際にさわったときは感慨深かったですね。

工業系の高校だったんですが、美術部はけっこうちゃんとしたところで、石膏デッサンを半年やってから20号以上の大きいキャンバスで油絵を描かせる、というしっかりした美術的訓練をしてくれるところだったんですね。じつはこの経験がのちに作家のインタビューをする際に役に立っています。

つまり、マンガ家さんていうのは、話しているとキャンバスを貼ったことがある、下地を塗ったことがあるといった経験の有無から、無意識に自分の絵の描き方について相手にどこまで話すかという線引きをしていると思うんです。そういう部分で自分の美術的な訓練、経験から作家と共通言語を築くことで、よりつっこんだ話が聞ける。

大学はどちらだったんでしょうか。

西日本工業大学というところの建築科でした。キャンパスは小倉から電車で1時間もかかる田舎の新興大学だった。福岡県で繁華街といえばまず博多、次いで小倉くらいの感じだと思うんだけど、むかしはそういう(商業的に)栄えている街にいけばそれだけコミックブックも買いやすいだろうと思い込んでいたんです。だけど、小倉にいっても門司港にいたころと状況が変わらない。だから、当時は東京に行きたくて仕方なかった。

ただ、オチを先にいってしまうと、実際は東京にいってもその辺はあんまり変わりませんでした。当たり前だよね、仕入れをしてるのは九州と同じ洋販で小売りへの配本もそのシステムでやってたんだから。

はじめてメビウスを知ったのはどこだったんですか。

はっきり覚えているわけではないけど、『スターログ』【註5】 じゃなかったかな。
【註5】スターログ アメリカのSF映画雑誌。1978~87年までツルモトルームから、1999~2006年まで竹書房から日本版が刊行されていた。ここでの『スターログ』はツルモトルーム版のこと。同誌ではウォーレンコミックスと提携してコミックブックの通販をおこない、SFアート大賞を主催し、1982年に第一回審査員としてメビウスを初来日させている。

大友克洋さん宅に飾ってあったメビウスのスケッチに憧れた。まさか後年、自分ちの居間にメビウスの絵を飾れるとは……。

『スターログ』1979年3月号(ツルモトルーム、1979年3月)

小野さんはそのころは『SFマガジン』などで海外マンガを紹介する記事を書かれていたと思うのですが。

『SFマガジン』は当時まだ「高い雑誌」というイメージでした。それより中学3年のときにハヤカワSF文庫が創刊されて(1970年創刊)、そこでロバート・E・ハワードのコナンシリーズやエドモンド・ハミルトンのキャプテン・フューチャー、ドイツのペリー・ローダンといったキャラクター主導のヒーロー小説(ヒロイック・ファンタジーやスペースオペラ)が翻訳されはじめた。カバーイラストに松本零士や藤子・F・不二雄といったマンガ家を起用しているのが印象に残っています。

小野耕世さんが「SFコミックスの世界」というコラムを開始した『SFマガジン』(早川書房、1971年1月号)

それ以前にもマンガ雑誌で大伴昌司さん【註6】 がかかわったSF系のグラビアや子供向け雑誌での福島正実さん【註7】 や野田昌宏さん【註8】 の海外のSF雑誌や単行本のカバーアートの紹介は好きでよく見ていました。そういうSFアートやキャラクターへの関心ていうのは、ぼくにとってアメコミへの興味と共通するものなんじゃないかと思います。
【註6】大伴昌司 編集者、評論家、翻訳家。‘60年代に欧米のホラー、SF、ファンタジーなどを紹介するコラム、エッセイを紹介するいっぽう、編集者として児童雑誌、マンガ雑誌のグラビアページの構成、執筆し、当時の少年たちに大きな影響を与えた。1973年没。
【註7】 福島正実 編集者、小説家、翻訳家。ハヤカワ書房から1963年に創刊されたSF雑誌『SFマガジン』の初代編集長であり、実作、紹介の両面で戦後日本SF草創期の功労者。1976年没。
【註8】 野田昌宏 テレビディレクター、プロデューサー、小説家、翻訳者。TV制作者としておもに『ひらけ! ポンキッキ』などの児童向けTV番組の制作にかかわるいっぽう、翻訳、紹介記事執筆などSF出版関連でも活動。のちに小説も執筆した。パルプマガジン、SFアートなどのコレクターとしても有名。2009年没。

大学卒業後はすぐに書店に勤められたんですか。

建築系の大学にいっていたので、はじめは神戸の建築関係の会社に入ったんですが、そこは二年くらいで辞めてしまって、そのあと神戸の「漢口堂書店」という書店に勤めはじめました。

その店は残念なことに洋書は扱ってなかったんですが、そのころちょうど小野さんが『月刊スーパーマン』(マーベリック社)や光文社のマーベルコミックスをやられていて、それをすごく楽しみにしていた。『月刊スーパーマン』の二号目にはぼくが投稿したコメントが載っています(笑) 。

『月刊スーパーマン』No.2(マーベリック出版、1978年)

ぼくが就職した70年代末頃はミニコミやSF、小劇場演劇といったさまざまな若者文化が盛んになっていった時期で、就職が神戸だったから、関西でいしいひさいちさんが所属され、村上知彦さん【註9】 が出入りしていた「チャンネル・ゼロ工房」【註10】 や勤め先の書店が主催していたマンガファンのグループなど、趣味の話、マンガや映画について教えてくれる先輩たちとはじめて知り合いました。
【註9】 編集者、マンガ評論家。‘70年代から‘80年代にかけて同世代的なマンガ批評の書き手として支持された。
【註10】チャンネル・ゼロ工房 1975年に関西大学の漫研のOBたちが作った同人グループ。いしいひさいちのデビュー作『バイトくん』の同人誌版を刊行した。のちに編集プロダクションとして活動。

東京に移られたキッカケは?

当時勤めていた書店が阿佐ヶ谷に出店するという話があり、「おまえ地元じゃないし(東京に)行く?」といわれて ‘81年ごろ上京しました。

当時大友さんも近所に住んでいたし、チャンネル・ゼロの人脈で高取英さん【註11】とも知り合いになっていたので、そこから中央線沿線のマンガ、小劇場演劇、ミニコミなんかに関連した人脈ができていった。いしかわじゅんさんとか夏目房之介さんとかみんな当時なにかの飲み会で知り合って付き合いが始まった感じですね。
【註11】劇団「月食歌劇団」主催、劇作家、演出家、編集者、批評家。この11月に亡くなった。

その店がまた商店街の二階にある見つけにくいところにあって、お客さんが来ないんですよ……当時そのことをぼくが大友さんにだいぶ愚痴ったらしい(笑)。それを聞いた大友さんが「じゃあ、オレの原画展でもやる?」といってくれて、その阿佐ヶ谷の店で原画展を開催した。それがぼくがやった最初の原画展です。

そこからすぐ「まんがの森」に移られるんですか。

その店はけっきょく2年くらいで閉店してしまったので、そのあとしばらくは全然マンガとは関係ない、ディスカウントショップに勤めた。普通の勤め人。その普通の反動か(笑)、小松杏里さん【註12】の「演劇舎蟷螂」という劇団の公演を手伝ったり、友人の伝手で編集のマネゴトをしたり、……ぼくは音楽はやりませんでしたけど、映画だとか演劇だとか、マンガ以外にも当時の若者が夢中になってたような文化はひと通り経験したんじゃないかな。でも、それは特殊なことでもなくて、都市部にいた若者は当時大なり小なりそういう経験があったんじゃないですか。
【註12】小松杏里 編集者、劇作家、演出家、演劇プロデューサー。「演劇舎蟷螂」、「演劇プロジェクト月光舎」を主宰していた。現在、福岡県久留米市の劇場でディレクターをつとめる。

この時代、勤務先が銀座だったので、イエナにフランク・ミラーの「ボーン・アゲイン」を連載していた「デアデビル」を買いに行くのが楽しみだった。

―「まんがの森」と海外マンガ

84年に新宿で「まんがの森」 がオープンするわけですが、その立ち上げにかかわったのはどういう経緯だったんでしょう。

これも妙な縁の話で……当時白夜書房で『まんがブリッコ』の編集をやってた大塚英志さんが引っ張ってくれたんです。大塚さんがぼくが神戸にいた時期に出したミニコミを彼が編集を手伝っていた徳間書店の『リュウ』のコラムで取り上げてくれたことがあって、白夜書房の社内で「使える店舗があるからマンガの専門店を出したい」という企画が持ち上がった際に「マンガを知っている人間」としてぼくを推薦してくれた。

まんがの森 新宿店

‘88年に青心社が士郎正宗さんの『アップルシード』を出そうとしたときに士郎さんの原画展をやったんですが、当時はああいう新しいかたちのマンガがいろいろ出てきていて、エロ系や同人誌なんかも含めてそういう新しいものを評価できる人間として呼ばれたんだと思います。実際には当時のぼくには同人誌やエロ系の人脈はありませんでしたから、その辺は大塚さんが紹介してくれて、「まんがの森」で岡崎京子さんや桜沢エリカさんなんかのサイン会をやりました。

だから、あの店の立ち上げ時の半分くらいは、大塚さんのアイデアが組み込まれている。

そういうサイン会であるとか、阿佐ヶ谷時代からの流れで当時はあまり書店ではやっていなかった原画展をやるスペースを常設したり、「まんがの森」に来たら常になにか発見がある……そういうコンセプトで店をやっていました。

「まんがの森」で海外マンガを扱うようになったのはどういう理由でしょうか。

新宿店の立ち上げをやって、そのあと吉祥寺店の店長になったんですが、その時代、‘89年くらいにはじめてニューヨークに行ったんですよ。このときはコミックショップにいって山ほどコミックブックを買って、隣で見ていた子どもから「Crazy!」と呆れられたりした(笑)。

まんがの森 吉祥寺店

その翌年、晴海でおこなわれたブックフェアで、たまたま出展していたマーベルのビジネスマネージャーと知り合って、マーベル本社に行けることなったんですね。そしてその話を社長にしたら「そんなに好きなんだったら(店で)売ることを考えてみたら」といってくれた。そこでマーベル本社を訪ねたときにコミックブック流通についていろいろ教えてもらいました。

もうひとつ、ちょうどその直後くらいにVIZの社長がぼくを訪ねてウチに来たんです。それはアメリカでの今後の英訳出版のリサーチのためだったんだけど、そのときに「日本でコミックブックを売りたいと考えている」と相談したら、「夏にサンディエゴでコミックコンベンションがあるから、そこに来ればディストリビューターを紹介する」という願ってもないお誘いをいただけた。

そこではじめてサンディエゴにいってディストリビューターとも契約するんですが、ぼく個人としてはケント・ウィリアムスやジョン・J・ミュース、ジョージ・プラットといった、前年のアメリカ旅行で見つけた新しいタイプのアーティストたちがアーティストアレイにごろごろいて原稿を売ってる、そのことのほうに興奮しました。

ケント・ウィリアムスとジョン・J・ミュースがアーティストを務めた『Havok and Wolverine: Meltdown』#1(Marvel Comics、1988年12月)

ジョージ・プラットの『Enemy Ace: War Idyll』(DC Comics、1998年)

のちにおしぐちさんが「ペイント系」として日本に紹介される作家たちですね。

ええ、そこからアメコミの輸入販売をはじめるわけですが、ちょうどそのころから彼らの作品をはじめとしてアメリカでもおもしろい作品が単行本化されるようになりはじめた……。小さいころから入ってすぐアメリカのコミックスを売っている店があるという夢を何度なく見ていたのですが、けっきょく自分でやることになってしまった。

当時、売っていたのは単行本ですか?

いや、単行本、コミックブックの両方ですね。それに加えてフィギュアなんかも売り始めたんですが、そのあと‘90年代の「スポーン」のフィギュアブームが来るわけです。

実際に売ってみて反響はどうでした。

けっこう「待ってました」ってひとはいましたよね。ぼく自身がそうだったけど「継続して買える」ことはそれだけで大きかったから。

まんがの森 渋谷店

渋谷店のディスプレイ。まんがの森ではアメコミのフィギュアなども販売されていた

―自分の好きなものをなんとかしたい

「まんがの森」ではBDやアジアのマンガも扱っていたそうですが。

じつは「まんがの森」で本を扱う前からサンディエゴのコミコンに香港マンガの出版社が出展していたので、(香港マンガに関しては)存在は知っていたんです。そこで向こうの出版社の人間と知り合いになって、今度はぼくが1991年に結婚して新婚旅行で香港にいくことになったんですね。それでアメリカで知り合った香港のマンガ出版関係者に「今度香港に行くから遊びにいっていいか」と連絡をとって、そこから司徒劍僑や利志達といったクリエイターたちによる香港マンガの新しい動きを知り、派生して台湾の出版社につながりもできていった。この本(『漫画魂』白夜書房)にも唯一海外作家として台湾の陳淑芬さんのインタビューを載せています。

『漫画魂~スピリット~ おしぐちたかしインタビュー集』(白夜書房、2003年)

BDの場合は、1993年くらいにトンカムという日本マンガの仏訳版を出している出版社がアングレーム国際漫画祭で日本マンガのパネルをやるから出ないかと誘ってくれたんですね。それで二度ほどアングレームにいかせてもらった。

ただ、アジアもヨーロッパも実際に本を売ろうとすると難しかったですね。アメリカはコミックショップ向けの流通が一元化されていたのでそこと取引をすればよかったけれど、香港や台湾、フランスなんかもそういうシステムはないから各出版社と個別にやり取りをするしかない。フランスなんか自分が「これは!」と思う作家がいても毎月(そのアーティストの)本が出るわけでもないから、どうしてもうまく本が仕入れられなかった。

おしぐちさんは『コミッカーズ』【註13】などの雑誌で多くの海外のコミックアーティストへのインタビューをされていますが、これらはどういう経緯でおこなわれたものなんでしょうか。

べつに最初から媒体が決まっていたわけではなくて、たとえばアングレームにいったときなんか、コーディネイターが気を遣ってアーティストのインタビューをする機会を作ってくれたんですよ。ただ、事前に打ち合わせがあるわけでもなくて、アーティストと引き合わせて通訳だけ置いて置き去りにされる。その作家のことも事前に調べてわかっているわけではないから、その場で本を見ながら、インタビューするなんてことをずいぶんやりました。ぼくはそれでだいぶ鍛えられた(笑)。
【註13】1995年に美術出版社から創刊されたマンガの描き方、アートスタイルをテーマにした雑誌。

おしぐちさんのビル・シンケビッチへのインタビューが載った『Comickers』2000年夏号(美術出版社、2000年8月)

じゃあ、雑誌に掲載された記事に関してはおしぐちさんご自身が企画を持ち込まれたんですか。

だから、『コミッカーズ』なんかも海外の作家のインタビューや紹介をいろいろ持ち込んだんですが、なかなかうまく取り上げてもらえなくて。アジアの作家なんかも『漫画ホットミルク』【註14】でアメコミの紹介とはべつにページをとってもらったんですが、残念ながらあまり広がりませんでした。
【註14】漫画ホットミルク 1986~2000年まで白夜書房=コアマガジンから刊行されていた成人コミック誌。おしぐち氏は同誌でアメリカンコミックス紹介コラムを連載していた。この1997年5月号では、97年3月に渋谷店で開催されたジム・リーとトラビス・チャレストのサイン会の模様をレポートしている。香港最新事情では、司徒劍僑の紹介を行っている。

『漫画ホットミルク』1997年5月号(白夜書房、1997年5月)

『漫画ホットミルク』1997年5月号のジム・リーとトラビス・チャレストのサイン会についての記事

『漫画ホットミルク』1997年5月号の司徒劍僑の紹介ページ

当時そういう企画を立てられたのは、まんがの森での販売促進のためだったんですか。

「本を売りたい」という意識がなかったとはいわないけど、それ以前に「日本で(自分の好きな)これを何とか広めたい」という感覚だよね。

いまフーさん(フー・スウィ・チン )の同人誌をコミケで売ってるのもそういう動機です。せっかくこういうものがあるんだから、できるだけ知ってもらいたい、という。

フー・スウィ・チンさんの同人誌『muZz(ミューズ)』#14

About Author

小田切 博

フリーライター、アメリカンコミックス研究。著書『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』(NTT出版)、『キャラクターとは何か』(筑摩書房)、共編著『アメリカンコミックス最前線』(小野耕世との共編、大日本印刷)。

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